作曲活動のきっかけ

大正10年の「演芸画報」で小三郎は次のように話しています。

 

私は研精会を起こすずっと以前、即ち10代時分から何か作曲してみたいと思っていました。

謡曲の「富士太鼓」が非常に気に入っていたので、謡本に向かってポツポツ節をつけて一人で楽しんでいました。


しかし、俳句が趣味だった弟子で友達の下田(二代目吉住小次郎)さんから、謡曲へ節をつけるのは歌詞が長すぎて面白くない、やるなら歌詞を詰めたほうが良いのではないかと言われました。

そこで私と六四郎さんは、まず試作として「邯鄲」「富士太鼓」「鉢の木」の三曲を抜粋し作曲してみる事にしました。

邯鄲、富士太鼓は私が、鉢の木は六四郎さんが作曲しました。

 

曲が出来てみると人に聴いてもらいたくなります。

そこで、六四郎さんと相談し、自腹を切って浜町の日本橋倶楽部で演奏してみたのです。

これが私の作曲の始まりとなり、それから研精会に新曲を発表してゆく事になりました。

 

研精会第一作目は「鳥羽の恋塚」

私が研精会で本格的に新曲発表した第一作目が「鳥羽の恋塚」です。

半井桃水先生から「袈裟御前のことを書いているから、作曲してみては?」と勧められ、快諾しました。

新曲発表は「大会」にしよう、1曲ではつまらないからもう1曲を六四郎さんに作ってもらって華々しくしようという事になり、六四郎さんは幸堂得知さんにお願いして「知盛」を作りました。

この時、研精会の大会では必ず新曲を発表しようと決めました。

 

当時は作曲に不慣れで、どうしたら良い曲ができるかと苦心しました。

「鳥羽の恋塚」は従来の長唄の類型に囚われないようにやってみたいと思いました。

作詞の半井桃水先生も長唄の歌詞をお作りになったのはこの曲が初めてだったそうです。

歌詞は語りものになっており、純粋な長唄ではなく、唄浄瑠璃に属するものです。

そこで、浄瑠璃の節を多少加味しなくてはならないけれど、長唄を義太夫じみたものにしてもダメ・・・

私はひどく苦心しました。

 

まず半井桃水先生のお話を充分に伺った上で作曲することにしました。

半井先生によると、初めに歌詞を思いついたのは「見初めし縁の橋供養」という一句で、それから前後の歌詞を継ぎ足していったとの事。

そこで私もまた、一番初めにそこから唄ってみることにしました。

「見初めし縁の~あら妬ましのめおと雁」は最初にひどく苦心しました。

 

この唄には、外記節や、荻江や、琴唄や、地唄や、義太夫節を参考としたところが沢山あります。

 

・・・このように長唄としての1曲目の作曲はとても苦労したようですね。

現在の吉住流でも「見初めし縁の橋供養」の部分はとても大切に唄われています。