戦後、慈恭は東京から熱海に移住しました。終戦から慈恭が他界するまで、熱海の内弟子をしていたのが吉住小九郎。
慈恭晩年の様子をここで少しずつ語っていただくことにしましょう。
私の芸名は吉住小九郎(こくろう)といいますが、名前を考えてくださったのは歌人、国文学者の佐佐木信綱さんでした。
慈恭先生と奥様の小濱さんは、晩年、東京から熱海に移住し、私はそこで内弟子をしておりました。
家は坂の上にあり、私はご自宅まで奥様のお尻を押して歩いておりました。
佐佐木さんはご近所にお住まいで、その様子を見ておられたようです。
ある日、慈恭先生に「あのお弟子さんは本当にご苦労さんだね。名取になって研精会に出る時には是非、小九郎という名前にしてあげてください」と仰られたそうです。
それで私の名前は小九郎になったというわけです。
熱海のご自宅のご近所には、沢山の文化人がお住まいでした。
慈恭先生は手先がとても器用で、熱海の紫山荘では、ご自分で机や小物などをお作りになりました。
いくつか写真に撮っておいたものをご紹介させていただきます。