昭和4年、上野の東京音楽学校(現•東京藝術大学)に専科として長唄科が創設され

六四郎、小三郎が講師に任命されました。

六四郎56歳、小三郎54歳の時でした。

第一回の生徒募集は、年齢に制限をしなかったため、若い人にまじって60,70の高齢の生徒まで来てしまいました。
そこで、第二回募集からは年齢を20歳までに制限することにしました。

長唄科の生徒は40〜50人くらいで、唄と三味線に分かれ、六四郎が三味線、小三郎が唄を教えました。
 
専科の唄の授業は週二回、午後3時くらいから2時間ほど、集団稽古でした。
始まってしばらくすると、生徒も増え、芸も上達し、中には吉住の名取になる生徒も出てきました。
 
学期末には上野の本校の奏楽堂で演奏会を開きましたが、昭和5年6月21日には皇太后さまのご台臨を仰ぎ、生徒の長唄をお聞きいただくまでになりました。

翌6年には皇后陛下がおいでになり、同じように生徒の長唄を聴いていただきました。

この時、講師の六四郎、小三郎も「鶴亀」「安宅勧進帳」を演奏しました。
NHKの中継放送もされ、観世左近も能を演じました。

昭和11年に長唄科は専科から本科になり、六四郎、小三郎は教授に昇格しました。

本科になると専門学校なので、毎日朝から授業が行われるようになり、生徒は長唄実技だけでなく、英語、国語、数学、歴史などの一般教養も勉強するようになりました。
 
小三郎はその後、終戦直後まで東京音楽学校で教授を勤めました。
東京音楽学校は戦後、東京藝術大学になりました。