慈恭と浄観でそれぞれの説があります

(慈恭)研精会という名前を付けてくださったのは、浜町の千葉というお医者の息子さんで新聞記者の方です。

 
(浄観)長唄研精会の創立に関しては協力者が居りました。井上房吉という人で、元相場をやっていたと聞きましたが、悦翁さんの所へ出入りしていたので懇意になり、私達が会を始める時、事務的な方面の一切を引き受けてくれ、会の宣伝やら運営その他を一人でやってくれました。
この研精会という名前も井上の発案でした。父の三郎助の俳名が杉本精というのですが「精」はしらたげる米の意味があるから、技芸を磨く意味にも取れるということでした。
「研精会」は長唄の会名としては少し堅すぎるという意見もありましたが、漢文口調が流行しておりましたので、それがかえって受けたのです。
 

当時の新聞記事を調べてみると…

長唄研精会ができた同じ年の明治35年の5月に絵画の展覧会で「研精会」と名付けられた会が催された記事が見つかりました。これは絵画における新進気鋭が決起しての展覧会でした。

長唄研精会ができる3ヶ月前のことです。
もしかすると…同じ趣旨を長唄に置き換えたのが「長唄研精会」かもしれません。